2025年07月29日
イチロー殿堂入りスピーチ全文(翻訳あり):イチロー鈴木選手が殿堂入り(そして笑いを誘う🤣)! | イチロー
そして、全米野球殿堂の会長として、イチロー、あなたを殿堂ファミリーに迎え入れることができて光栄です。そしてコミッショナー・マンフレッドに、あなたの盾の刻印を読み上げていただきたいと思います。
イチロー・スズキ
シアトル AL 2001–2018–19
ニューヨーク AL 2012–14
マイアミ NL 2015–17
卓越した労働倫理と比類なきバットコントロールで、大リーグに記録的なヒット数をもたらした、日本出身初の野手。2001年にはマリナーズを記録的な116勝のシーズンへとけん引、ア・リーグ新人王とMVPを同時受賞。2001年から2010年まで前人未到の10年連続200安打を達成。2004年にはシーズン最多安打記録(262安打)を樹立。メジャー最初の10年間を通してオールスター選出&ゴールドグラブ外野手。ア・リーグ最多安打を7度、ア・リーグ首位打者を2度獲得、日本でも7年連続首位打者。通算3089安打、509盗塁。この瞬間、あなたに殿堂入りのリングを贈呈します。さあ写真撮影に移ろう。日本という国の皆さんにも想像できないことでしょう。彼は来月、日本の野球殿堂にも入ることになっていますが、MLBの試合に出場した初の純日本育ちの野手であり、あらゆる期待を超えてきました。日本の誇りです。イチローが2001年に来た時、その重圧は計り知れませんでした。その後、日米通算28シーズンのプロ生活。本当に驚くべきことです。皆さん、2025年の野球殿堂新メンバー、イチロー・スズキです。
ありがとうございます。今日、私はもう二度と味わうことはないと思っていた感情を抱いています。三度目のルーキーです。最初は1992年、オリックス・ブルーウェーブに高校卒で指名された時、2度目は2001年、27歳でシアトル・マリナーズと契約した時。そして今ここで、ロッド・カルーさん、ジョージ・ブレットさん、トニー・ラルーサさんのような方々を見ると、またルーキーに戻った気分です。素晴らしいチームに温かく迎えてくださったことに感謝します。殿堂の価値観を守れるよう努めますが、私はもう51歳なので、新人いじりはほどほどにお願いします。フタスのユニフォームをもう一度着る必要はありません。
最初の2回は、それぞれの目標が明確だったので感情もコントロールできました。全力でプロとして最高のレベルで野球をすることが目標でした。しかし今回は全く異なります。子供の頃、日本で自分のプレーが、ここにあるとは知らなかった神聖な野球の地に導いてくれるなんて考えたこともありませんでした。人はよく私を記録で評価します。3000安打、10回のゴールドグラブ、10年連続200安打…まあ悪くないですよね?でも本当のことを言うと、野球がなければ私はただのバカ者ですよね、仲間たちは皆そう言います、ボブ。ボブ・コスタス。
野球はただ打つ、投げる、走るだけではありません。野球は、本当に大事なことを見極める価値観を教えてくれました。人生や世界観の形成にも役立ちました。子供の頃は永遠に野球ができると思っていました。しかし年を重ねるうちに、愛する野球を45歳まで最高峰で続けるためには、全てを捧げるしかないと気づきました。ファンの皆さんが貴重な時間を使って観に来てくださるからには、勝っていても負けていても、私は責任を持ってプレーしなければならないと感じていました。オープニングデーから最終戦まで、常にそれが義務でした。最終アウトまで荷造りも箱詰めも一切しませんでした。毎試合全力でファンに向き合うのがプロの務めだと考えていました。いつ来ても楽しんでいただく、それがファンの皆さんに値する姿勢だと信じています。
野球が私に教えてくれたのは、プロフェッショナルとしての意味です。そして、これが私がここにいられる一番の理由だと信じています。自分の能力が他の人より優れていたわけではありません。3000安打や1シーズン262安打は記者たちが認めてくれました。まあ一人を除いてですが。ちなみにその方へのディナー招待の期限は切れてしまいました。私が認められた数字は、19シーズンという長きにわたり、日々小さな細部にまで一貫して注意を払い続けた結果です。道具も毎日自分で手入れしました。グローブの紐が緩んだり、スパイクを掃除しないことによる滑りで失敗するのが嫌だったのです。オフシーズンも真剣なルーティンを守り、キャンプ初日にはすでに肩が出来上がっていました。マリナーズのリック・リズアナウンサーが「ホーリースモーク! レーザービームの送球だ」と叫ぶのを待っていました。
小さなことでも一貫してやれば、成し遂げることに限界はありません。私を見てください。身長180cm、体重77kg。アメリカに来た時、多くの人が「大リーグの選手たちより細くて無理だ」と言いました。最初にグラウンドに出た時は相手選手に圧倒されていましたが、準備をしっかりすれば疑念、たとえ自分自身の疑いでも乗り越えられると信じていました。
「チームのためにできる最高のことは何か?」と度々聞かれますが、私の答えは「自分に責任を持つこと」です。帰宅して「なぜヒットを打てなかったのか」「なぜあのキャッチができなかったのか」と考える時、正直な答えは投手が素晴らしかったからでも、太陽がまぶしかったからでもない。自分にやれることがあったはずだ、ということです。自分に責任を持つことで仲間を支え、ファンを欺かずに済むのです。
子供の頃の夢はいつもプロ野球選手になることでした。6年生の時、作文にもそう書きました。今の自分なら夢ではなく「目標」という言葉を使うでしょう。夢は必ずしも現実的ではないが、目標は達成可能です。本気で達成したいなら、どうすれば実現できるかを深く考える必要があります。夢を見るのは楽しいですが、目標は困難でチャレンジングです。ただ「やりたい」と言うだけでは足りません。真剣であれば必要なことをクリティカルに考えなければなりません。
日々の努力と準備がプロになるために重要だと作文に書きました。目標を定め続けるうちに「継続こそ成果の基盤」だと分かりました。若い選手たちにも「大きな夢を持ってほしい」と言いたいですが、夢と目標の違いも理解してください。夢を目標に変えるには、それを実現するために大切なことを正直に考えなければいけません。
あの作文には「地元の中日ドラゴンズでプレーするのが夢」と書きました。当時はアメリカ野球のことなんて全く知りません。ただ野球が大好きで、生涯最高レベルで野球を続けたいと思っていました。オリックスに指名されて第一歩を踏み出し、最初のフルシーズンで首位打者を獲り、その後も毎年結果を出しました。
外から見れば順風満帆に思えたかもしれませんが、内面ではなぜ結果が出ているのか悩み、答えを探し続けていました。そんな私の中で、ある歴史的出来事が起きます。野茂英雄さんが私の生きている間に日本人初のメジャーリーガーになったのです。彼の成功は多くの人に、私にも大きなインスピレーションを与えました。おかげでMLBは常に日本で話題となり、TV中継も増えました。
野茂さんの勇気のおかげで、自分自身を全く知らない世界で試すという考えが開けました。オリックス・ブルーウェーブがMLB挑戦の機会をくれたことに感謝しています。シアトル・マリナーズが日本人野手初のメジャーリーガーになれると信じてくれたことにも感謝しています。私はシアトル、そしてマリナーズをずっと愛してきました。ありがとう、シアトル。
この特別な栄誉が、私を再び契約してくれたGMパット・ギリックさんと再会させてくれるのも最高です。パット、そしてヒロシ・ヤマウチさん、ハワード・リンカーンさん、チャック・アームストロングさんら当時のオーナー、フロントの皆さん、今のジョン・スタントンさん、ジェリー・ディポトさん、ケビン・マルティネスさん、チームのみなさん、私をまたシアトルに呼び戻し、永住を許してくれてありがとうございます。
エドガー、ジュニア、ランディと同じ新しい“チーム”に加われて光栄です。今日来てくれてありがとう。
ニューヨーク・ヤンキースにも感謝します。今日、みんなは本当はCCが目的で来ているんでしょうが(笑)、それでいいんです。彼は愛される選手です。私はピンストライプの2年半を楽しみ、デレク・ジーターのリーダーシップと誇り高い文化に触れられたことを感謝しています。
マイアミ・マーリンズ、デビッド・サムソンさん、マイク・ヒルさん、今日来てくれてありがとう。正直、2015年オファーをもらった時、あなたがたのチーム名すら知りませんでした(笑)。でもフロリダでの日々は大好きで、40代半ばにして若い才能に囲まれ成長できました。コロラドで通算3000本安打を仲間たちが全力で祝ってくれたあの瞬間は一生忘れません。本当に純粋な喜びでした。あの仲間たちとともにメジャーリーガーとして3000安打に到達できたことを感謝しています。
私のエージェントたち、彼らはビジネス以上の存在です。残念ながらトニー・アタナシオはこの瞬間を見ることなく亡くなりましたが、アメリカでの挑戦を後押しし、ワインの楽しみも教えてくれました。ジョン・ボグスも42歳になっても私のプレーを後押しし続け、ずっと情熱を注いでくれました。
長年の通訳アラン・ターナーとご家族、私がどこでプレーする時も支えてくれ、ありがとう。ジェン、ジョシュ、チェスター、ホイットニー、殿堂スタッフ、そしてジェフ・アイドルにも感謝しています。あなたがいなければ、この素晴らしい機関の価値に気付けませんでした。
CC、ビリー、デイブ・パーカー、ディック・アレン、トム・ハミルトン、トーマス・ボズウェル、おめでとうございます。
日本人初の野手として大リーグを目指すと決めた時、多くの疑念がありました。それ以上に批判や否定の声もありました。「国の恥になるな」と言う人もいました。最大の支えは妻・弓子でした。彼女が心配するのは当然なのに、決して私にそんな不安を感じさせず、19シーズンずっと私を励まし、家を笑顔とポジティブな空間にしてくれました。選手として一貫性を目指した私ですが、彼女ほど一貫した仲間はいません。
引退してまもなく弓子と二人だけのデートで、現役時代にはできなかった「一緒にスタンドからマリナーズの試合を観て、アメリカ流にホットドッグを食べる」という経験を初めてしました。これまで野球を通じて味わった中でも、この人のおかげでここまで来られたと実感した時間が一番特別です。
アメリカ野球殿堂入りは目標ではありませんでした。2001年初めてクーパーズタウンを訪れるまで、ここがあることすら知りませんでした。でも、今日ここにいて確信しています。まるで素晴らしい夢のようです。ありがとうございました。
![Number(ナンバー)1114号[雑誌]](https://m.media-amazon.com/images/I/51-zsUmiSBL._SL500_.jpg)














